『ソムニウム』国民監視・没個性化・創造的な活動への抑圧が現実化した未来社会

 

タイトル ソムニウム(SOMNIUM)
制作者 Gerard Seymour, Riann Sholtz, Pieter Louw, Eben De Waal, Jasmine Morvan, Greta Pepler 他(the animation school)
制作年 2013年
時間 5分2秒
あらすじと感想 室内。
部屋のベッドで寝ている若い女。
目覚ましが鳴り、歯を磨く。
暗い音楽が鳴られる中、テーブルで何やら思い悩む女。
街角や駅には、顔がディスプレイになっている人々と監視カメラ。
電車の中で、女が紙にイラストを書いて向かいの乗客に見せると拒絶される。
学校の教室。
女の周囲の生徒は皆、顔がディスプレイ。
そして、顔が監視カメラになっている教師が黒板に書いた文字は「Don’t think」。
女は机に座り、何かのアイデアかイラストを紙に書いている。
そして、暗い教室で、そのアイデアの周囲だけが光り輝いているのだった。
だが、それを発見した教師は怒り、窓の外にその紙を捨ててしまい…。
作品においては、近未来におけるディストピア的社会が表現されている。
それは、国民の監視、没個性化、創造的な活動の自由の抑圧が現実化した社会だ。
具体的には、国民の監視が監視カメラ、没個性化がディスプレイ化した顔、創造的な活動の自由の抑圧が主人公の創作に対する教師などの他者の反応で表現される。
ディストピア小説といえば、ジョージ・オーウェルの『1984』やレイ・ブラッドベリの『華氏451』などが思い浮かぶ。
しかし、画一化された教育制度が没個性化人間を増やし、カルト宗教団体の隆盛が思想・表現(創造的な活動)の自由を抑圧、そして、独裁的な政府が国民監視を現実化させるとしたら、ディストピア世界の現実化にはどれほどの年数が必要なのだろう?
SFを扱ったアニメーションでテーマ自体に興味深いものがあると感じるとともに、主人公の境遇について、結末に胸をなでおろすような気持ちとなった
南アフリカのアニメーション学校の生徒が制作した。ニューヨークフェスティバル国際テレビ&映画賞受賞作品(2014年)。

追記

本記事を投稿(2017年7月5日投稿)した翌日から、警察や消防のヘリコプターが、私の周囲を旋回するように上空を飛行しています。

本記事の内容に対する反応であることは明らかであり、“表現の自由”への侵害(創造的な活動に対する抑圧)であると感じます。

また、私は福岡在住ですが、豪雨被害のあった地方はそっちのけで、半日以上かけ、(全く被害のない地方の)私を中心として旋回するヘリが7~8回は出没しております(7~8回は旋回した回数ではなく出没した回数です)。

以上は事実であり、タブレットでヘリの機体も撮影しております。

以下は、私なりの見解を示させていただきます。

投稿は、南アフリカにあるアニメーション学校の生徒たちが制作したアニメーションの紹介記事ですが、ディスプレイ化した顔でステレオタイプな情報をうのみにすることや没個性化が、監視カメラで国民監視、主人公以外の反応により創造的な活動の自由(表現の自由)の抑圧が表現されています。

そのような社会がオーウェルが小説で表現したところの“ディストピア社会”であることは明らかであり、国際的な共通認識であり、当然、南アフリカの制作者たちもそのように考え、この作品を制作したと考えられます。

また、例えば警察ということになると、私は警察官と話をして、多くの警察官は真面目で正義感に溢れた人々だということを知っています。

しかし、「そうではない人々もいる」ということであり、つまり、カルト宗教団体の信者が警察や消防に“多数潜伏している”という現実があるのだと感じます。

それは、下のようなGIF動画が最近話題になりましたが、この国の活力の低下、および国際社会における影響力の低下は明らかなわけですが、その様な流れに反比例するように活き活きとしてきた勢力があるのであり、それがカルト宗教団体であり狂信者です。
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日本の衰退っぷりがひと目でわかるGIFがこれ 冗談抜きでヤバいぞhttps://t.co/aXDuOVW7av

変わったのはアジア域内だけで本当に日本「だけ」がはっきり縮小してる。その他の地域のバランスは域内でも安定というのは面白い発見だ。 pic.twitter.com/Lz2Pvxjg0U

— sakamobi (@sakamobi) 2017年7月2日
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つまるところ、警察や消防における縦割りの指示系統にカルト宗教団体が割り込んでいるのであり、このようなヘリコプターのケースでは、ヘリコプターに指示を出している指示系統、および操縦者の両方が狂信者、あるいは片方が狂信者であると考えるのが妥当だという印象を受けます。

しかし、カルト宗教団体の狂信者とは、いかなる存在なのでしょうか?

スティーブン・ハッサン著『マインド・コントロールの恐怖』という本があります。

この本の著者は統一協会のアメリカ支部長だった人物で、自分が受けた洗脳などの体験を本書において記述されています。

簡単に表現すると、カルト宗教団体の信者は、洗脳されることにより“カルトのジョン”という新しい人格を植え付けられ、狂信者になるわけです。

それは、人格が増えるということですので、ノーマルなケースでは多重人格なのですが、その人格が破壊的かつ狂信的なものであるために、オリジナルの人格を圧倒し、狂信者人格が肉体を乗っ取ってしまうということです。

率直に、この国には洗脳された人々がたくさんいます。そして、狂信者だけに、自分が洗脳されているということを自覚していない場合が多いわけです。都市部では、それに気付いても関わり合いになりたくないので、見て見ぬふりです。

しかし、そのような洗脳された人々は上記のGIF動画のようなプロセス(この国の衰退)の進行とともに目立つようになったのであり、また、明らかに一般人よりもパフォーマンスの劣る人々でもあります。

そのような人々にとっては、警察や消防のように権力に関係する仕事は魅力的なのであり、また、カルト宗教団体にとっても警察や消防における信者の割合が増えることにはメリットがあります。従って、当然のように、警察や消防における狂信者の割合は増えてゆきます。

そうして、“ダムが決壊したように”政・官・財における狂信者の割合が上昇し、また、カルト宗教団体の勢力拡大の途上に現在があるのだとしたら、どうでしょう?

この国が衰退することによりカルト宗教団体が勢力を拡大し、また、社会には閉塞感が蔓延しているわけです。

国際的な共通認識として“ディストピア社会”だと考えられている社会が、彼らにとっては“理想社会”なのだったとしたら、そのことについて、私たちはどのように捉えればよいのでしょうか?

 

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